「作品に罪は無い」論に思うことで少しふれた佐村河内守の一件についてもう少し深く書いてみる。
古い話でもないので知らない人は少ないと思うが、佐村河内守の一件とは
佐村河内 守(さむらごうち まもる、1963年9月21日[5] - )は、広島県出身の人物。
中途失聴とされる聴覚障害がありながら『鬼武者』のゲーム音楽や「交響曲第1番《HIROSHIMA》」などを作曲した音楽家として脚光を浴びたが、2014年2月5日、自作としていた曲がゴーストライターの代作によるものと発覚(「ゴーストライター問題」の項を参照)。聴覚障害の程度についても疑義を持たれており、ゴーストライターを務めた作曲家の新垣隆は、「佐村河内は18年間全ろうであると嘘をつき続けていた」と『週刊文春』に掲載された独占手記で主張した。横浜市による再検査では中度の感音性難聴と診断され、障害者手帳の交付の対象となるレベルではなかった。
ウィキペディアより引用
という事件である。
障害者手帳を交付されていたことについては「悪事」ではあるが、それ以外、特に法を犯したわけでもない。障害者年金も受給していないので不正受給と騒ぐことでもない。
自分はテレビをほとんどみないため、これが事件化するまで佐村河内守という名前を知らなかったし、曲も聴いていない。が、有名な音楽家(三枝成彰)が絶賛したり、NHKスペシャルで「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」という放送があったことも知らなかった。知ったのはゴーストライターを務めた新垣隆氏がそのことをばらしてニュースになってからである。
この問題が発覚したのち、予定されていたコンサートは全て中止、レコード会社の日本コロムビアがCDの出荷や配信を停止した。この時「作品に罪は無い」と擁護する声はなかったと思う。
これ、そもそも問題なんだろうか? ゴーストライターなんて珍しいものでもない。「全聾の音楽家」として世間を欺いていたことが責められているわけだが、そもそも「作品に罪は無い」論からすれば作り手の素性と作品は関係ないはずなのに、そういうギミックで音楽が評価されていたわけである。
佐村河内守とは、プロデューサーであり演出家、どうすれば大衆に受けるかを計算し、新垣隆氏に大衆受けする音楽を発注していた稀代のエンターテイナーであったと思う。その演出家としての力量は謝罪会見でも遺憾なく発揮される。あのロングヘアーと髭にサングラスのいかにも大物の風格を気取っていた氏が、髪を短く切り、髭を剃り、サングラスも外し「この人だれ?」と思わせる謝罪会見はネタとしても大変おもしろかった。
別に新垣隆氏もカミングアウトする必要なんてなかったわけで、そうすれば一般大衆が飽きるまでそんなに長くはかからなかったのではないかと推測する。が、話が大きくなりすぎて怖くなったのだろう。この騒動、ソチオリンピックでフィギュアスケートの高橋大輔選手が佐村河内名義の楽曲を使うことになっていて、バレたら大変なことになると。
ウィキペディアにはこんなことも書いてあった。
新垣隆の知り合いである作曲家の伊東乾は、「私個人の見解」と前置きしたうえで、番組制作スタッフがまったく気づかなかったはずはなく、聴力については「せいぜい難聴程度の症状をオーバーに言って、そういう商売しているんでしょう…ま、芸能界にはあることだから」、作曲についても「どうせ、例によってアシスタントとか使ってやらせてんでしょ」と見切っていた可能性が高いと述べて、この事件を引き起こしたのは、経歴の脚色やゴーストライティングを許容してきた業界の悪習慣ではないかと批判している。
ウィキペデイアより引用
うん、そのとおりだ。この批判がもっともこの騒動を表していると思う。
さて、その佐村河内守氏について、この文章を読んでもらうとわかるが、私自身はあくまでも「稀代のエンターテイナー」と思っており、将来を閉ざされるような悪人ではないと思っている。もちろんピエール瀧とは異なり犯罪者ではない。
少し前にみちのくプロレスのザ・グレート・サスケのテーマソングを作曲しているという話題をみて少しだけうれしくなった。サスケ、やるじゃん!(これが、名曲か、プロレスラーの入場曲としてふさわしいかなどはともかくとして)
(追記)「作品に罪は無い 佐村河内守」で検索すると、作品自体を評価している方々の意見はみかけた。当時、新垣氏はHIROSHIMAなどの「誰でも書ける」みたいに大した作品じゃないみたいなことを言っていた記憶があるが、新垣氏にとっては自分がやりたいものではなく大衆受けするくだらないものを作らされたみたいな感覚で発言したのかもしれない。